おかえり



 朝靄の中に浮かぶアルヴィスの制服を見つけた途端、きっとあの約束は今日のことだったんだと確信した。





 どうしてその日にかぎってそんな早起きをしてしまったのかわからない。まるで何かにみちびかれるように、当然のように立て付けの悪い扉を開けて、もやに煙る小さな島の階段を見下ろした。
 その、瞬間に。
 坂を下っていく遠い後ろ姿を見た。
 白を基調とした若年用のアルヴィスの制服。ゆるくくくられた肩を越す色素の薄い髪。見覚えのある、歩き方―――。
 時が止まったような錯覚。あるいは逆行したような懐かしさ。見開いた目の先に浮かんだその白はどんどんと遠ざかって行き、不安と期待に胸がうるさいほど脈打っていた。
 考えてみればおかしな話だ。こんな濃い朝靄の中でどうしてその姿がはっきりと目に映ったのだろう? けれどそんなことは少しも気にならなかった。
 待ってくれ。
 行かないでくれ。
 お前があいつなら、どうして。
 やはり幻覚だろうか。喉の奥はこんなに痛いほど干上がっているのに、それでもこれは夢だと言うのだろうか。
 階段を一足飛びに駆け下りる。これがいつもの空しい、目覚めたときにただ喪失感だけをもたらす夢なのだとしても、それでもやはり追いかけずにはいられないのだ―――いつものように。
 全力で息が切れるほど走り続けているのに、どうしてかゆったりと歩いているように見える目の前の姿は少しも近くならない。
 頼む、頼む、頼むから、待って―――!
「っ……総士ぃーーーーー!」
 追いつけない。引き止められない。行ってしまう、あのときのように!
 ただその事実を認めたくなくて声をあげた。喉の奥から、息を振り絞るように。
 その声が届いたのか、ゆらりとその背が揺れた。
 夢ならば、いつもここで目が覚める。振り向いた彼の顔を見ることもなく、自身の伸ばした手が視界に移って変わり映えの無い、彼の居ない朝に空虚さを覚えるのだ。
 覚めるな……頼むから……。
 揺れた背はまた憎らしいくらいの平静さでもって、けれど彼がぴたりと足を止めた。そこはいつかの海辺だった。竜宮島の立場を教えられ、自分と彼が一度は決別した、その場所。
 打ち寄せる波に徐々にもやは払われて、今ではそこにはっきりと変わらない彼の姿を認めることが出来た。けれど彼はいまだに振り向かない。先ほどの自分の声が聞こえなかったはずはないのに。
「そう、し」
 声が震える。熱いものが喉の奥から、瞼の裏から、全身から溢れそうでいったいどう言えば良いのかわからない。
「総士……」
 名を呼ぶことしかできない。そうしてもどかしいほどゆっくりとその距離をつめると、ふいに涼やかな聞き覚えのある声が耳を打った。
「背、伸びたんだな」
 それは、なんて彼らしい不器用さだろう?
 懐かしさに顔が歪んだ。夢の中では決して聞けない彼の声。
「あたりまえだろ……もう、どれくらい経ったと思ってるんだよ、おまえ……」
「少し遅くなった。けれどこれくらいは予想範囲のうちだ」
「俺にとっては、そうじゃなかった」
 彼を待つ日々の不安。もしかしたら永遠に会えないかも知れないと言う絶望。繰り返し流れていく季節の中で薄れていく記憶。そんなものにどれだけ自分は苦しんだだろう? 『必ずお前の元に帰る』なんて身勝手な約束に縋って、どれだけ時の流れを憎んだことだろう?
「淋しかった。辛かった。俺にとっては、すごく―――」
 目尻からこぼれた熱いものが頬を濡らし、足元の護岸にぱたぱたと染みを作っていく。喉がひきつる。もう、こんな風に強く心が揺さ振られることはないと思っていたのに。
「泣くな」
「……ほんと、勝手なんだよ、お前は……」
「そういう風にしか生きられないんだ、僕は」
「総士」
 涙に弛む視界の中で、彼が見つめた海からゆっくりと視界を転じて振り返る。
 痛いほどに射しはじめた太陽の光をその背に負って、別れたときと少しも変わらないかすかな笑みと、その目に走った傷をさらして。
「すまない、一騎。待たせたか?」
 誰もお前のことなんか待ってない。そう悪態をついたら今までが夢のように消えそうで、嗚咽をこらえてただただ必死に頷いた。
「総士……っ」
「ああ」
「話したいことが、いっぱいあるんだ、総士」
「ああ、僕もだ」
 別れていた時間がたとえほんの少しの間だったとしても、自分はきっとこうして泣いただろう。そして彼もやはり、すまないと謝ったのだろう。けれど今はもうどうだってかまわない。彼がこうして目の前にいる。たとえその存在が以前とは違うものだとしても、彼は彼としてそこにいる。
「おかえり」
「ただいま」
 またよろしく頼む。そういってわずかに照れたように目線を逸らす。その仕草に。
 ああ、やっぱり、お前は総士だ―――。


 もう、彼を求める夢と、彼のいない朝に絶望する日々は、終わったのだ。





ファフナーオンリーより。
長い間をかけて、閉じてしまった総士の心が少しだけ開かれた瞬間。
2005.04.14UP


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