第2話 策謀




その女が身に纏っているのだろうか。ひどく甘い香りが辺りに流れた。


「今はそれどころじゃない」
自分に体をすり寄せている女を冷たく一瞥し、セッツァーは男たちに向き直り話の続きを聞こうとする。
「そんな事いわないでさあ」
だがそれは首にまわされた女の腕に止められてしまった。
めんどくせえ…。舌打ちしながらセッツァーは無理やり女を引き剥がそうとするが、逆に抱きつかれてしまう。
耳元に感じるのは濡れた熱い吐息。
「あそこに2人連れがいるだろう?」
だが予想外に聞えたのは微かな、今までとは明らかに違う声音。内心の動揺は表には出さず、女を見るふりを
しながらセッツァーはそちらに視線を走らせる。確かに周囲とは違う雰囲気を漂わせた男が2人いた。
「あいつら帝国の兵士だよ」
その話は危険だという事か…。何か事情があるのかどうか、この女は客を誘う振りをして警告しているという事
なのだろう。どちらが本当にせよあいつらは危険だ、と彼のギャンブラーとしての勘も教える。
「ねえ。酒場でまで無粋な話はおやめよ」
女はなおも甘えたように擦り寄る。傍から見れば違和感は無いだろう…その役者ぶりに、女にしか解らない意
図を込め、片目を眇めセッツァーは苦く笑ってみせた。
「……しょがねえな…負けたよ」
続く少し呆れたようなかすれ声。周りには彼が誘いに負けたように見えただろう。騒ぎになるのを避ける為にも
そう見えてもらわねばならないのだが。
「そう来なくちゃ」
やっぱ相手をするなら良い男に限るね。ぐいとセッツァーの腕を引きながら楽しそうな声が響く。演技が成功した
証に、周囲からは男を落とした商売女への歓声と、少しばかり嫉妬を込めた野次があがった。
「さ。行こうか」
促す声に視線だけで答え。二人は酒場を抜け、奥に見える扉に向かう。
「姐さん。今度は俺の相手もしてくれよ!!」
「アタシに相手して欲しかったら、いい男になって帰ってきな」
ひときわ高い誰かの…多分常連だろう…陽気な声に、彼女はひらひらと手をふり答える。
常日頃から相手にされていないかかわされているのだろうか、声が聞えた辺りからは盛大な呻き声。そして酒
場中にふられた男への笑い声が響く。
立て付けが良いとは言えない扉の向こうに二人が消えると、酒場は喧騒を取り戻した。

まるで何の騒ぎも無かったかのように。

連れられて入った部屋は、酒場と同じ建物の中に有るとは思えない程静かだった。手早くランプの炎を調節し
て女は振り返る。長い髪が微かな炎に照らされて赤く輝いた。
「ここなら平気さ」
紅く彩られた唇の端に浮かべるのは謎めいた微笑。
「帝国の兵士に見張られるような店なのか、ここは?」
ずいぶん物騒だな。薄いカーテンが覆う窓際によりかかりながらセッツァーは口の端をつりあげる。この女が嘘をついている可能性も有る、まだ気は抜けなかった。
セッツァーは気付かれないように組んだ腕を上着の中のカードにかける。
鋭く尖ったカードの端は気休め程度とは言え、武器になのだ。
「ふふ…アンタがあの見慣れない飛空挺の持ち主だろう?」
「ああ」
鋭い視線にも女は悪びれた様子も無く、戸棚の中から琥珀色の液体で満たされた瓶とグラスを取り出す。
「ここはね。ダリルを捕まえる為に時々帝国の兵士がいたりするんだよ」
瓶の栓が抜かれると同時に流れてきた柔らかな匂いが、その液体が酒である事を知らせる。慣れた手付きで二人分のグラスに酒を注ぐと、彼女はセッツァーの隣に寄りかかるように並んだ。
いとおしげに満たされたグラスを掲げる。カーテンの隙間からもれる光を受け、グラスは硬質な輝きを放った。

「帝国はダリルが飛空挺を駆ってるのが気に入らないのさ。
 自分達だけの技術だと思ってるから」
くるり。と、弄ぶように回されたグラスの中で蜜色の液体が踊る。
「アタシが助けなきゃアンタもまずかったかもね。
 何となく気になったから助けてあげたけどさ」
くすくすと喉の奥で笑う相手にセッツァーは正直迷っていた。確かにここ数年、帝国は力をつけて来ている。
敵に回せば厄介な存在だし、これから飛空挺を駆る自分にとってもこの注告は有り難い…しかし。

「帝国は飛空挺の技術を外に漏らした人間は惨殺だもの」

『帝国』その言葉を口にした時、女の瞳が一瞬燃えるような輝きを見せる。
その様子でセッツァーは、女が何を考えているのか、何が目的で自分を助けたのかを悟った。
しかしそれだけでは意図は掴めない。
「何が目的だ?」
復讐の手助けでもしろというのか…それとも少しでも帝国を困らせたいのか…。セッツァーが問い掛けるのと同時に持ち上げられたグラスを一瞬の躊躇の後に受け取る。
その仕草の意味に気付いたのか、女は呆れたような表情を浮かべたが、何も無かったかのように流した。
「黒い…飛空挺…ね…」
ふと、セッツァーから視線をそらし琥珀色の液体を透ける淡い光に目を細める。

まるで懐かしいものを思い出している時のような遠い視線…。
酒場にいた時とも先程までとも違う女の様子に、セッツァーは黙って次の言葉を待った。

「なんて名前何だい?」

もちろん名前があるんだろう?自分を見下ろす紫の瞳を覗き込むように尋ねる。思っていたのとは違う問いかけ
に、セッツァーは片目を眇めてみせるが、女は気にしていないようだった。
「…『ブラックジャック』だ」
一瞬の沈黙の後、自分の問いに答える少しばかり誇らしげな男の声音に、女は僅かに微笑む。
「ダリルに会う気なら。暫くコーリンゲンの側にいるっていってたよ」
その答えに満足したように女はきびすを返してテーブルに戻り、再びグラスを満たす。そして、ともすれば聞き逃しそうな声音でそう呟いた。
「情報料は出ないぜ?」
空になったグラスに視線を落とし、再度女の意図を探る。…と、グラスが手から奪われた。引き返してきた女がセッツァーの手からグラスを奪い、そのまま窓枠に置いたのだ。
「かまわないよ」
いい男は好きだからね。
女は囁くように言うなり、腕を首に巻きつけセッツァーを引き寄せる。そして…。
伸び上がるようにしてセッツァーの唇に自分のそれを重ねた。
「まったく。ダリルといいアンタといい…全くなびきもしない。
 私もそろそろ引退した方がいいのかしらね」
長い抱擁の後体を離した女は、不意の口付けにも表情ひとつ動かさない相手を睨みつけながら、心底悔しそうに呟く。
セッツァーはしっとりとした感触が残る唇に指を当てた。
「そんな事は無いさ」
今日はたまたま別のものに興味があったからな。
だから相手をしないだけだ…と言外に告げ、不敵に笑ってみせる。セッツァーの言葉に多少は機嫌を直したのか、女は肩をすがめてみせた。

「そろそろ夜が明けるね…明けないうちに行くんだろ?」
「ああ。俺の飛空挺が待ってるからな」
白み始めた空の明かりが薄い布地を透して部屋に忍び込む。僅かに布をずらし、外を確認しながらセッツァーは答えた。外は僅かに霧が巻き白く霞み、人目を避けるには最適だった。
「気を付けてお行き」
朝霧の中。酒場の裏口から女が男を送る…珍しくも無い様子に、僅かに辺りを通りがかる街の人間も興味はなさそうだった。
足早に霧の中に溶けていく銀と黒の色合いを追いかけながら、女は長い髪をかきあげる。

鋭い不遜な眼光をたたえた紫の瞳が、飛空挺の話をした時だけ煌いた事を女は見逃さなかった。
そうあって欲しいと、そう願っていたからこそ見逃さなかったのかもしれない。
セッツァーが垣間見せたのは夢を追いかける者が共通してもつ、輝く瞳。

「夢を追いかけてる男は好きよ…
女なんて待ってるだけで…忘れられても泣くだけだけど」

それでも夢を見てる男を見ているのは好きよ…。愛しそうに呟きながら女の脳裏に浮かぶのは善良な男の姿。
いつも油まみれで仕事をしていた。不器用だけど優しい……もう何処にもいない人。
「ダリルもあの男も貴方と同じ瞳をしてるのよ」
ほんと嫌う事も出来ないんだから、嫌よね…。
言葉の割には悔しがっているふうでもない女の言葉は、誰に聞かれる事無く霧の中に消えた。